母・鐵子様の葬儀のお礼状

2010・10.27  母鐵子の葬儀のお礼

天国社の社長様をはじめ、スタッフの皆様、母の葬儀では本当にありがとうございました。

母に故郷を見せていただきありがとうございました。
ご参列いただいた皆さんから暖かいいいお葬儀で下とのお言葉をいただきました。
なにぶん初めての葬儀。何から何まで誠実にエスコートいただきました。
すぐにお礼のご挨拶をと想いましたが、心の整理が思うようにいかず
遅くなり申し訳ありませんでした。
81歳でした。

会社を辞め、独立してから
えびのの実家に少しは顔を出す時間が工面できるようになったのですが、それまでの親不孝をうめるにはまだまだ足りない状態で、両親が宮崎市に出てきてくれマメに顔を出せるようになってすぐ、胆石で救急車。
手術は成功。
でも、食欲がなくなりました。
そのうち、点滴がはずせなくなり次第に「生きる気」が弱くなっていきます。
一日に、牛乳1口、ゼリー1口。
でも、リューマチやいろいろな薬、14種類は飲まないといけない。
医者は、原因が分からないので検査して原因を探そうとする。
病院も本人が食べたいものならなんでも持ってきて食べさせていいとなる。
スイカ、カステラ、伊勢海老の刺身、フライドポテト、でも効果があまりみられない。
一方では、母は食べれないのではなく、食べない。んじゃないか?
ひょっとして、
自分で、自分の人生を終わらせようとしている・・・・のでは?
「もう十分生きたから、もういい・・」何かそんなことをいつか言った気がする。
自分も老後の人生を考えるとき、「子どもに迷惑をかけるより、コロリと死にたい」そう考えるときがある。

宮崎は、口蹄疫で大変。
私も、終息後の復興企画や
新しい施設(父が残っていたので)探し、
そのうえ義父(介護2)の同時期の入院、イロウ手術、受け入れ先探し
一日8回病院往復、介護付き施設探し、など
病院に入院してから、時間があれば、
いや時間がなくても、できるだけ顔をだした。
だから、
ゆっくり横にいてあげることができず、
「宏昭は、いっとっもおらんが・・・」
と憎まれ口をいわれてました。
今想えば、病院で一人でさびしかったんだろうな・・
何故、一回でもいいから、納得するまで一日一緒にいてあげなかったのか・・・・

それが悔やまれます。
ホームホスピスの「かあさんの家」という、今宮崎で一番安心しておねがいできる施設
が空いたので、
10月5日、病院を退院させ、ホームホスピスの「かあさんの家」に入りました。
やっと父と一緒の家で生活。
いつでも、誰かいてすぐに介護していただけ、話し相手になってくれる介護のプロの方々。
でも、少し遅かった。
それでも、最後の一日は、父と息子夫婦(3世帯6人)と孫(5人)に囲まれ
安らかに息を引き取りました。

10月25日1時21分。
葬儀場に移動した、25日の朝3:00、
雨もやみ、
何気なく空を見上げました。
満月でした。
やけに明るい夜中の3時、
よく見ると月の左上が光って見えました。
満月の光に照らされ、月の左にある雲に7色の光が反射して虹が出てました。
月の光でできた「虹」・・(いまになってみれば月の暈(かさ)だったんですね!)
はじめてみました。
なんだか母が、すべてを解っていて許してくれているような気がしました。
※その時の虹を、ケータイで撮りました。(ロイヤルシティーホール宮崎から撮影)

ロイヤルシティーホール宮崎から撮影

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